はだしのゲン | 2012年12月25日 |
12月19日
はだしのゲンの作者。
中沢啓治さんが広島市内の病院で肺がんで死去されました。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
玉島学園の記事とは全く関係のないことなのですが
個人的な思いもあり、ブログに載せることをお許しください。
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「はだしのゲン」は
週刊少年ジャンプに昭和48年(1973年)から
自身の体験を基に書かれ、
今では18カ国以上の国で翻訳され出版されています。
故手塚治氏の「宝島」に感動し
漫画家を志し
1963年(24歳の時)にプロデビューされた中沢さんは
自身が被爆者であることは隠して執筆活動を続けて来られていました。
転機が訪れます。
1966年
最愛の母親の遺骨が火葬で残らなかったことが
きっかけとなり「はだしのゲン」の執筆を決意されました。
「原爆はお袋の骨まで持っていくのか!」
ほとんど残らなかった遺骨に怒りを増幅させたそうです。
「はだしのゲン」の中で描かれた原子爆弾投下直後の惨劇
広島市内の様子は多くの読者に衝撃を与えました。
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中沢さんは6歳のときに被爆、
父と姉、弟を亡くしつらく苦しい日々を
母と二人で生きてこられました。
今でこそ、原子爆弾による
さまざまな被害について
二次的な被害も含めて検証されてきていますが、
終戦直後は被爆者への差別や偏見も多かったのです。
今でこそ被爆者援護法が定められているのですが
1960年代は被爆者であることを公言すること自体、勇気のいることだったと思います。
お母さんの死という現実に直面したとはいえ
中沢さんの勇気に感服です。
そして、
中沢さんは恒久平和と核兵器の廃絶を願い
戦争の反省と
原子爆弾の脅威(非人道的な無差別攻撃)を
ゲンをとおして訴えかけてこられました。
来夏には原画など寄贈された原爆資料館で
「はだしのゲン」連載開始40周年の企画展が計画され
中沢さんも出席される予定でした。
「困難に直面しても、たくましく生き抜いたゲンのように平和への道を切り開く力になってほしい。」と
原発の問題もみんなの取り組みが問われている今日です。
「原爆に負けてたまるか!」
車いすで酸素呼吸器姿で反戦を訴えてこられた中沢さん、
広島では今夏から平和教材の一つとして
「はだしのゲン」が使われるようになったとか、
あらためて、ゲンの姿から
中沢さんの思いに触れることができればと思います。
合掌